このコアストーリーは、幸せのレールに乗っていたはずの公務員が、外側に見せている自分と、内側に潜む自分のギャップに気づき苦しみ、それを一致させることで人生を変えていった20年の軌跡を5つのターニングポイントから綴ります。
大学で児童心理学を専攻したのち、教育公務員として就職。
その1年目で学級崩壊を経験。
様々な養育環境の中で生きている子どもたち。中には虐待やネグレクト、それに相当することを日常的に経験することで、同じように人に接してしまう子どもたちがいます。生まれてまだ5年足らずであっても、暴言が飛び交い、手が出る足が出る…。言葉でおさめようとしても心には届かず、時には顔に痰が飛んできたり、パンチや噛みつきが返ってきたり。
保育者であっても、思わずウッとなってしまう。そんな日々の中で、私は途方にくれながら答えを探していました。
怪我やトラブルも多発していました。
そんな時にふと目にしたベテラン保育者の接し方。叱ることも正すこともなく、淡々と「そうかそうか。」と話を聞いているだけに見える。なのに、子どもたちはみるみる落ち着いていきます。
なぜだろう。
この問いが、分厚い幼稚園教育要領を見直していくきっかけとなりました。
そこに書いてあったこと。
それは「心情・意欲・態度」を育むことが保育であるという根本理念。
「心情」を理解されれば、次への「意欲」が生まれ、それが態度を変化させていく。
表面で子どもをみるのではなく、その奥にある「心情」を理解すること。心情を理解していけば、自然とこうしたい!という「意欲」が芽生え、態度が変わる、と。原点は「心情」。気持ちを理解することにある。これは私にとって大きな発見でした。どうりで「そんなことをしてはいけないよ」と行動を指摘しても態度が変わらないわけです。
保育者に求められるあり方は【1.理解者】【2.共同作業者】【3.モデル】【4.援助者】、この4つであることもそこには記されていました。
まず相手を理解し、そして一緒にやってみる。望みを叶える「モデル」になり、どうしたらそうなれるかに導く援助者であること。
子どもたちが今どんな気持ちでいるのか、言動に惑わされることなく心にフォーカスしながら、共同作業者として共にやってみる、このステップを大切にすることが、子どもたちと心を通い合わせるために必要だと再認識してから、現場で毎日ひたすらに実践を繰り返しました。
その結果、どんなに荒れている状態であっても100日経てば「先生大好き」「自分も仲間も大好き」と心開く姿へ変化する確信が持てるようになりました。
こうして、保育者としては信念を持って仕事に取り組み、周りから評価されていきます。しかし一方で、自分自身の私的な生き方は、相変わらず正解のレールを探す状態にいた私、このときすでに20代後半。
その後の二つの出会いが、人生の新たな扉を開けます。
わたしが好きだから
ある時、一人の女性保育者が異動してきます。
「保育への思い」にシンパシーを感じてすぐ彼女に心惹かれました。
当時の私は、保育に打ち込む一方で、いつも周りの空気や気配を読んで、正しさの中にいることで安心している生き方。
保育者なら、「ジャージ姿に薄化粧、運動靴にニコニコ笑顔」がスタンダード、と疑うこともなく「大勢に受け入れられるだろうもの」を選ぶ。そんな世界を生きていました。車は白の軽自動車。機能的で予算も地方公務員にふさわしいだろう、そんな思いで毎日通勤。
でも、出会った彼女はかわいいヨーロッパ車に乗っていたのです。
「どうしてこの車に乗ってるの?」思わず私の口から出た質問。
そして返ってきた答えは
「この車が好きだから。」
彼女の一言に、私は胸を突き抜かれます。
だって、これが「好き」だから。
「自分の好きで選ぶ」という新鮮なる驚き。
そして、その答えを聞いて私は、白い軽自動車を選ぶとき、本当の本当は私もレトロな丸っこい外国車に乗りたかったんだ!と、かつて一瞬で掻き消した「自分の好き」を思い出します。
疑うこともなく「世間体や親が気にいる価値観」を基準にしていた私の前に現れた、自分の「好き」を大切に生きる彼女。そんなふうに物事を選んで生きてみたい。心に新しい風穴が開いた瞬間でした。
さらに彼女は、単身でパリへ行く行動派。
給与の安い幼稚園教諭の仕事。そのほとんどを天引き貯金していた私にとって、海外旅行へ行くだけでも衝撃なのに、しかも一人で!?もうその思い切りの良さと勇気にびっくりしてまたも彼女に質問します。
「どうしてパリに行くの?」
やっぱり返ってきた答えは「パリが好きだから」
ずっとずっと、人の意向や気持ちを勝手に察して応えようとしてきた身にとって、あまりにも素敵に感じた言葉。
今までの人生で、私は「自分の好き」でなにも選んでこなかったのかもしれない。
「私も自分の好きを選んでみたい」
ずっと、親や家族の喜びそうなことを選ぶ、その基準だけで生きてきた私の心に芽生えた思い。
「誰かのために心を消すのではなく、自らの心の声、望みのために、自らの選択を行う」
現在の縁側につながる、大きな転換点。
夜の世界を生きる人
時期を同じくして出会ったのが、夫。
当時の私は、夜の街を出歩くなんてもってのほか。怖がりで真面目に生きていました。
それがひょんな縁で、親友の幼馴染が経営するバーに連れて行かれます。そのお店のオーナーが後に夫となる彼でした。
親の喜ぶ進路を進んで、公務員になって、幼稚園教諭として勤め、仕事を終えてまっすぐ家に帰る。そんな私にとって彼の存在は全てが「規格外」。自分でお店を持って経営する。生きている世界が全く違う人。
「自分のやりたいことを選び続ける姿」それが私にとってとても眩しかった。
バックパック一つで海外を放浪した話、美大に通いながらWスクールでデザイン専門学校にも通学していた話、デザイン事務所に就職したけれどやりたいことができないと感じて退職してバーを始めた話。
どれもが「自分のやりたい」からはじめて、軌道修正しながら次の「やりたい」に向かって進んでいく姿。
夫は私に新しい世界を見せてくれた人。自分の可能性の伸びしろを感じさせてくれた人。
彼との出会いでまた「自分の望みを選び叶えていく人生」、その輪郭がくっきりしていくのです。
保育者的子育ての悲劇
結婚後、子どもを授かり出産。育休を3年とって、私は晴れてお母さんになりました。
心を育む保育をしてた私。もちろん、自分の子育ては余裕!そう思っていました。しかし、まさかの現実がやってきます。
多動気味な長男。子育て支援センターに行っても落ち着きなく動き回り、どうかすると周りの子に手が出てしまう。
小さな町で「保育者」としての顔の知れていた私はここでまた、周りの目や評価が気になってしまう。「先生の子ども」それがまさかこんなに落ち着きがないなんて。子育ては余裕だと思っていた期待も自信も一気に崩れ落ち、私は支援センターにいくことをやめ、引きこもるようになります。
そして始めたのが「早期教育」でした。
落ち着きなく人と関われない我が子を前に思ったのは「この子をなんとかまともに育てなくては。」と言う焦燥感。
まだまだ幼い我が子と行う、毎日毎日繰り返す知育教育。綿密にプログラムされた教育は、毎日続けていれば乳幼児でも、2桁の数字の暗算ができるほどのレベルになる、右脳教育として秀逸なものでした。だからこそ私は、夢中に、なっていきます。
毎日毎日、取り憑かれたように我が子と繰り返すその教育。気づけばいつの間にか私は我が子の「成果」に「自分の評価」を乗せ始めていました。毎日、毎日、とにかく、毎日。
そんなある日のこと。息子が熱を出して、今日は日課がこなせない。その時咄嗟に思ったことは「熱なんか出してる場合じゃない。」「一日休んだら、三日遅れるのに!」熱を出している我が子を前に、心配ひとつできない自分に気づいてゾッとし、私は自分の何かがおかしくなっていることに、気づきます。こんなはずじゃなかったのに。
その出来事の後に出向いた、知育ママの集まりで、私は大切なことに気付かされるのです。
成果ばかりを期待して、楽しむ余裕がなく、ノルマのようにこなしていた私。でも、他の人は違っていた。
「これがあれば、まだ言葉を話せない我が子とも楽しくやりとりができる。心が通う。それが嬉しい」
笑顔で、我が子と心が通わせられること、その喜びを話すお母さんの姿を見て
「心の在り方、捉え方、向き合い方ひとつなのだ。」と気づきます。
どんなにいい教育だって、使う人がノルマをこなすように成果ばかりを求めていては、元も子もない。
結局は、「それを扱う人の心次第」
楽しいと思うのも、苦しいと思うのも、それを決めるのは「私の心」。
子育てと母親の心(潜在意識)には、密接な関係があるのだと言う大きな気づき。
そうして私はまた次のステップへと、進みます。
潜在意識の学びから、
人の心の真理へ
そこから私は、心と潜在意識について調べ学び始めます。
潜在意識を扱う講座、セラピー、カウンセリング法、コーチング法、通信で大学院にも通い心理学も学びなおしました。
私たちは、幼い時から積み重ねた経験からくる思考パターンがデーターベースとなり、言動を決めています。
それを楽しいと思うのは「楽しいと判断しうる経験をしてきたから」
それが苦しいと感じるのは「苦しいと思うに至った、原体験があるから」
そのデータベースの判断に基づいて作られる生き方が「こうすべき」「こうしなきゃ」「これが普通」。
自分が経験してきたことの中から偏った解釈で、ルールや法則を作る。本心を抑え、思考で選ぶ生き方とも言えるかも知れません。まさにこれまでの私がしてきた生き方でした。
でも、本当は違う。
人は本来、望みを叶える可能性を備えて生まれてきている。積み重ねてきた思い込みによって、本来の気持ちや望みは蓋をされてしまうけれど、望みの原石は決してなくなるわけではない。だからこそ、人は、出会いや体験によって立ち止まるようにできている。
自分が抑えている望みを、体現している人が気になったり、心動いて惹かれたりする。
それは、自分にも確かにある奥底の望みが、聞き届けられることを待ち望んでいるから。
出会いや体験で感じる感情の動き、その先にこそ「本音の望みがある」。
子育てに行き詰まり、潜在意識の世界に辿り着いた時、私にこれまで起きていたことの説明がすべてつきました。
私にないもの、私が閉じこめていたもの、私が見ないふりをしていたものを見せてくれている人との出会い。それが「あなたもこんな生き方を選ぶことができるよ」「あなたも本当はこうしたいのでしょう?」と気づかせてくれたからです。
〜 相手は私の本音に気づかせてくれる鏡の存在 〜
全ての人や事象は、自分の「本音」に気づかせてくれるためのありがたい存在です。
だから、私たちは、外側の人に向かっていくら吠えても幸せにはなれない。自分の心・・・内側で起きていることに、心の耳を澄ませなければ。
このことに全ての人が気づいたら、他責や自責の世界から卒業して内なる平和がやってくる。
心の仕組みに気づいた瞬間でした。
こうして、気づきと学びを得ながら、縁側の土台はどんどん作られてゆくのです。
心の世界と
頭でっかちな私
心の仕組みに気づいた私は、これを伝えるべく、初めて自分でお話会を企画します。
子育てと潜在意識の活用についてのお話会。そこから、形を変えながら、縁側の原型の活動がスタートしていきます。
そうこうしている内に個別で話を聞いて欲しいという依頼が来るようになり、育休中で暇だった私は、その要望に応えるように自宅の縁側でカウンセリングを始めます。
その日々の中、とある自然育児の講座に参加します。
ここで私はある壁にぶつかってしまいます。元々が頭でっかち思考優位タイプ。何かするにしても「理由や根拠」が欲しい。
とりあえず理由はいいからやってみる、が実はできない。なんでこれをやる必要があるのか、なんのためなのか、どんな意味があるのか、何が得られるのか。根拠を知って納得した上で取り組みたい。
そんな頭の声が邪魔をして純粋に課題に集中できないのです。
ところが。
理由も根拠もなくやれる人たちは、課題をクリアしてどんどん成果を出していく。
それも「子どもを可愛いと思えるようになった」「子育てが楽しくなった」という感覚的なものだけではなく、アトピーや喘息の改善といった明らかな成果があった。
なんでだろう?どうして私はできないんだろう?こんなに色々やってきても、思考で納得しないと実践できない私はやっぱりダメなの・・・?
そんな思いが募ったある日、その思いの丈をそのまま、SNSで投稿したところ、「私も同じような気持ちです」と賛同する人からメッセージをもらいます。私だけじゃない。講座やメソッドを取り入れては挫けている人たちがいる。
それはなぜなんだろう?
この疑問が、大きな転換点。
思考優位な人が、理解しながら自分に落とし込むためには、「学ぶ→やってみる」の間に「もうワンステップ」が必要になる。
なぜそうなるのか論理で説明して納得する手間と時間、「学ぶ→噛み砕いて言葉で理解する→納得する→やってみる」の流れ。
このステップがあれば、私のような頭の声がうるさい人も、「理解と納得があるからこそ取り組むことができる」。
私はこれまで学んできたことを思考優位の人にも伝えられるようにしていこうと決意。
学んだ内容を噛み砕いてわかりやすく解説するおもしろさにハマっていきます。ここがスルスルとできたのは、17年間の保育者経験のおかげ。幼児と心通わせるには、難しいこともわかりやすく伝えなければならず、台本もない。そんな日々で私は、誰にでもイメージできる例え話を織り込みながら、専門用語を使わずとも理解し、納得してもらえる伝え方を身につけていきます。
この体験の中で改めて気づいたことがもう一つ。
日常にこそすべてがある。
幸せになりたくて、私たちは様々な方法を学ぼうとします。うまくいかなければ、また次の学びへ、それを繰り返していくうちに、学びのジプシーになり、生き方さえもジプシーのように彷徨っている人が少なくありません。
でも、そうじゃないんです。
何か一つでいいから「日常で当たり前になるまでやり切る」ことができれば、それが人生を変える。だって人生は日常が連続したものなのだから。学びに逃げてはいけないし、目の前の日常から目を背けてはいけないのです。
学びの中に答えがあるのではなく、学んだことを生かす日常の中に、あなただけの答えがある。
今この瞬間あなたの目の前にある日常、一番近くにいてくれる人とのかかわり、そこで起きる心の動きに丁寧に向き合う。それが、何よりもっとも大事で、あなたからはじまる幸せのきっかけなのです。
でも、その日々の実践がうまくいかないと、結局この方法も合わなかったか、と諦めて、新たな学びを探してしまう人が多いのも現実。
だったら。
学んだことが日常生活の当たり前になるまで、伴走できる場所があればいい。
縁側の、もう一つの起源です。心の自動車学校ともいうべき場所。
心の仕組みを知って、自分自身の心との付き合い方を身につける。本音で生きて、自分自身から始める幸せな日常をつくるその術を手に入れる。
自分の心が自由に運転できる自分になる。そのために伴走し、サポートする。
それが、セルフチューニングメソッドであり、「縁側スペース neiro」の大切な、役割です。
誰もが身近な人との関係の中で生きています。それは時として「自分ではないもののために歩みを進めてしまうこと」が少なくありません。
誰かの期待や笑顔、喜びのために、社会の常識や評価のために「自分の本音ではない選択」をしてしまう。
それが重なるごとに私たちは本当の気持ちがわからなくなり、自分を見失い、日常生活の中で様々なズレ・・・うまくいかない人間関係、イライラ、不安や焦り、窮屈さを感じては「私の人生なのになぜか私のものではないような感覚」に陥り、行き先のわからない迷路を歩いているようになってしまう。
そんな時は、大切なサインです。
あなたが、あなたの本音を奏でることができていないよ、もう一度、自分の心と向き合って、あなたの本音を、純粋なる「心の音」を思い出そう、そこから生きていこうよという、サイン。
縁側は、あなたの心の内側にある、喜怒哀楽すべての感情の奥にある「本音」を見つけるための、学びと実践の場。
外側と内側を一致させる場所。
あなたがあなたの純度のままに、本音にピントを合わせてチューニングして生きることができたなら、自分で人生を選んでいる実感が湧き、その道のりで起きることすべてを、丸ごと引き受けて進んでいくことができます。本音は、純粋なる望みであり、誰かや何かを否定したり批判したり、押し付けるものではありません。誰もが、心からの本音を差し出し合い、受け取り合って生きていくことができたなら、そこに広がるのは、ただただ、「あるものを認め合う世界」です。
それができたら、きっと世界は平和になる。私はそれを信じています。
だから、それを伝えたい。自分の生き方にどこか窮屈さを感じていた保育者時代から、20年近い日々を重ねて今たどり着いたのは、幼稚園教育要領を読んではっとしたあの時と同じでした。
「心情・意欲・態度」
そう、子どもだけではなく、大人にこそ心を全受容する保育を!
そうすれば、こう生きたい!という意欲が生まれ、自分で自分の行動を決めていける人生になります。
保育の原点は、今の縁側スペースneiroの原点です。